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last updated 1997/05/26

第11話(全130話)

茶色い花 (2/2)




 彼はいまこの時、ツバメのことを思っていた。
 あのヒナツバメの巣も、やはりこの雷神のいかづちのような列車の轟音と震動に耐えられず
、橋脚からふるい落とされたのだろうか? 巣が落下して行った時、ヒナツバメはもう空を飛
べるようになっていたろうか? そうだといい。あの愛くるしい瞳のおチビさんが無事にいて
くれたら、どんなにかいいだろう。
 ちいさな体のすべてを心臓にして、トクトクと息づいていたあのヒナツバメが、大空の主み
たいな顔で南を目指して飛んで行く。その様子をピートは想い描いていた。
 だから彼は気がつかなかった。
 人生最後の瞬間は、映画で劇的効果を高めるために使用されるスローモーションのように、
ゆっくりと一瞬を長く長く引き伸ばすものなのだ。そういう話をピートは二○年以上も前の戦
争の時に、大砲の砲撃を受けて吹っ飛ばされたことがあると、一日に三度は誰彼なしに語って
聞かせているジェイド爺さんから聞いたことがある。
 爺さんは砲弾が炸裂し、体が宙を舞った時、世界がいきなりスローモーションになったのだ
と言っていた。逃げ惑う戦友たちの姿が、その髪の毛の逆立つ様子に至るまで見て取れるほど
だった。自分と一緒に大地から宙へと舞い飛んだ岩が、空中でさらに細かく砕けて砂になって
行く様子もちゃんと見えた。砕けた石や砂が舞い飛ぶ様子は、この我が故郷サンタ・クレアの
町で子供の頃に見た、春の日の蝶たちの求愛ダンスのようだった。わしは宙を舞いながら背中
のザックから日記を取り出し、辞世の句でもしたためておこうかと思ったよ。何? いくら何
でもそんなに長い時間吹っ飛ばされてたはずはないって? そう思うのはお前さんがまだ子供
で、大砲に吹っ飛ばされたこともない青二才だからだよ。日記に一句したためる余裕はじゅう
ぶんにあったさ。それどころかトルストイの大河小説だって読み終えることもできたろうさ。
あいにく手元にトルストイはなかったがね、もしあれば戦場のど真ん中で大砲に吹っ飛ばされ
ながら『戦争と平和』を読む贅沢を味わえただろうに、残念なことをした・・・。ジエイド爺
さんの話はまだまだ続くのだが、たいてい話がトルストイに至った辺りで聞いている人たちは
「このホラ吹き」と罵りながら爺さんの側から立ち去って行く。しかし橋脚から眼下の川へと
落下して行くピートには、爺さんの話が決してホラではないことがわかったはずだ。
 列車はとっくに鉄橋を渡り切って走り去ってしまっていた。
 なのにピートはまだ落下し続けていた。
 落下するピートの意識がヒナツバメの安否から、いま自分が置かれている状況へとスルリと
移行した。彼は自分でも何か普通じゃないことが起こっていることに、いまさらながら気がつ
く。
 ぼくはいったいどこまで落ちるんだろう?
 アリスのように地球の反対側まで落ちちゃうのだろうか? けどアリスが落ちたのはウサギ
の穴だったはずだよね? ぼくは橋の上から落ちたんだ。なら地球の反対側に辿り着く前に、
まず真下の地面なり川なりにぶつかるはずじゃない? なのにどうしてドシャンと落ちないん
だろう? 
 飛んでいる、という感覚はなかった。漂っている、という感じでもない。彼が体で感じてい
るのはやっぱり、落ちている、という感覚だ。
 周囲を見回してみた。森も山も町も川も見えなかった。
 すべてのものがあまりにも早く下から上へと移動していて、形あるものは何ひとつ確かめる
ことができなかった・・。

 ・・ピートに思い及ぶはずはなかったが、彼はいま宇宙的規模のシンクロニティーの中にい
た。双子の片割れが火傷をすると、もう片方の子にも同じ場所に火膨れができる。それが共時
性〈シンクロニテイー〉と呼ばれる現象だ。似たようなことが世界のあちこちから数多く報告
され、それは疑いようもない現実の出来事だと広く認められている。けれどそういう現象は未
だ学校の教科書には載らない。載る予定もない。それは科学ではないからだ。どんなに研究が
深められようと、いや深められれば深められるほどに、それは科学から遠退いて行くもののひ
とつだ。例えばこの世には愛情というものが確かに存在する。けれどその愛情の強弱を計測す
る機械というものはない。どんな時に愛が生まれ、どんな時にそれが減少するのかを定める法
則もない。それは科学では解き明かすことのできないブラックボックスの中にある。夢で見た
ことが現実になる、という現象もある。予知夢とか正夢とか呼ばれる。けれどそのメカニズム
を精神医学も物理学も解き明かすことができない。予知能力と呼ばれ、超能力と呼ばれ、そし
て科学的ではないと烙印を捺されることになる。愛も超能力も、そして共時性も、原因の解明
が出来ないまま、ジェイド爺さんの昔話と同じように「ホラ話」として扱われてしまう。
 そして原因不明のまま、結果だけが残される。
 双子の片方に火膨れができたのは、そこに機械や合理性の入り込む余地のない、見えない絆
があるからだ。そしていまピートが列車の轟音と震動に、橋脚から振り落とされたのも、ピー
ト自身、思いも寄らない絆が存在していたせいだった。
 絆はピートをどこまでも落下させて行った。
 ピートは重力によって地表へと引っ張られるのではなく、その存在すら知らなかった・・け
れど確かに存在している・・見えない絆によって引っ張られていた。
 どこへ?
 どことも知れない場所へ。
 大昔からずっと、地球と共時性を保ち続けていた世界へ。
 
 橋脚をつかんでいたピートの手が激しい震動に弾かれ、ピートは思わず「あ」と声を上げた
。 その「あ」と口にした一瞬の脳波の波動が、跳ね上がった心臓のパルス波が、現実から非
現実へと飛んだ意識の空白が、ひとつの世界ともうひとつの世界とをつなぐ扉を開けたのだっ
た。ふたつの世界はピートの「あ」という短い叫びによって、その刹那だけ、ひとつに結びつ
いた。
 東洋では「あ」という音は宇宙誕生の瞬間の音だと伝えられている。そんな神秘性を孕んだ
音が、閉ざされ続けていた世界の扉を開くチャイムの代わりとなったのかもしれない。
 ピートは自分が落ち行く先が母さんやマクファーソンさんや、ドクター・ルゥドやヒナツバ
メの暮らす世界ではないことなど、まるで知る由もないままに、ただどこまでもいつまでも落
下し続けて行く。
 ぼく、どうなっちゃうんだろう?
 ウサギの穴に落ちたアリスのように、あるいは竜巻に飲み込まれたドロシーのように、そし
て森へと続く道を歩きながら、いつしかこの世ならぬ世界へと導かれて行くすべての童話の主
人公たちと同じように、ピートもまた、なす術もなく解き明かすことの出来ないこの世の不思
議に導かれて、どんどんどこまでも、落下し続けて行った・・。

(つづく)




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